生と死のあわいで――大河の一滴として、ただ淡々と生きる

五十という節目が近づき、身近な人を見送るだけでなく、「あの人も亡くなったのか」「この人もか」と、さまざまな方の訃報を耳にすることが本当に増えました。

中には、私よりもずっと若くして旅立った方の話を聞くこともあり、その度に生と死が隣り合わせであることを感じます。

6年半という短くも愛おしい時間を共に過ごした、愛猫の紬(つむぎ)が旅立った時のことも重なります。

本当に会いたい、もう一度触れたいと願っても、どうすることもできない。

このどうしようもない物悲しさの中で生きていくことの、やるせなさを抱える日々があります。

かつての私は、誰かの訃報を聞くたびに「可哀想に」と口にしていました。

けれど、今振り返ってみると、そこには純粋な痛みだけでなく、「自分はまだ生きているぞ」という、少しばかりの優越感のようなものが混じっていたのかもしれません。

しかし、今はこう思うのです。

生きていることと死んでいることの間に、どちらが良いとか悪いとか、そういう違いはないのではないか、と。

そもそも、死んだ後の世界がどうなっているかなんて、誰にも分かりません。

分からない以上、死を「不幸」や「すべてを失う悲惨なこと」と決めつけることはできないはずです。

生きていることが常に素晴らしいわけではないように、死ぬことが常に悲劇だとは限らない。

両者の間には、優劣も勝ち負けもないのです。

だとしたら、先に逝った人たちを私たちが「可哀想だ」と哀れむ必要もないし、逆に自分だけが生き残っていることに、特別な理由や意味を必死に探す必要もないのだと思うのです。

ただ先に向こうへ逝った人と、まだこちら側に残っているという、状態や順番の違いがあるだけで。

では、私たちは一体何のために生きているのでしょうか。

「人生はゲームだ。楽しむために、そして色々な体験をするためにある」

という考え方があります。

私も以前、そんなふうに綴ったことがありましたし、確かにそうした側面もあるのでしょう。

けれど、すべてを「ただのゲーム」と割り切るには、どこか物足りなさや、乾いた虚しさを感じてしまう自分がいるのです。

そんな時、私の好きな五木寛之さんの言葉が胸に響きます。

五木さんは、私たちの命を「大河の一滴」に例え、人間は自分の力で生きているのではなく、目に見えない大きな力によって「生かされている」のだと語っています。

そして、人生にはどうにもならない悲しみややるせなさがあり、それを抱えながら生きていくこと自体に意味があるのだと。

人生がもしゲームなのだとしたら、それは決して要領よくクリアしたり、楽しさだけを追い求めたりするためのものではないのでしょう。

大切な存在を失ったときの深い悲しみも、どうしようもない虚無感も、すべては大いなる河の流れの中にある一滴の体験です。

そしてもう一つ、小林正観さんの「淡々と生きる」という考え方も、今の私にはとてもしっくりときます。

さまざまな人が次々と亡くなっていく人生の虚しさや、自分だけが取り残されていくような寂しさ。

それを必要以上に嘆くでもなく、かと言って無理に生きる意味を見出そうと力むでもなく、ただ目の前にある日常を受け入れ、淡々と生きていく。

悲しみを無理に乗り越えようとしなくていい。

生と死の間に優劣がないのであれば、私たちができるのは、その悲哀ややるせなさと共に「生かされている」時間を全うし、今日という日をただ静かに、淡々と味わい尽くすことだけなのかもしれません。

答えの出ない問いを抱えながら、取り残されたこの世界で、今日も命の続きを歩んでいく。

いつか大きな海にたどり着き、先に逝った彼らとまた溶け合うその日まで、ただ淡々と。

心理カウンセラー 木村裕

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